いまの小学生の教科書などを見てないのでどんな内容なのかまったくしらないのですが、もちろん算数の事業というものはあるでしょうね。 小学生までに最低できなければならない計算には、分数の計算というものがあるのだと思う。 これができるかできないかがその後大きくというか、全面的に左右するのだと思う。
私は通分というものをならったとき、「すごい」と少し感動した記憶がおぼろげにある。もうかなりの昔話だけど。 それ以降私は算数で苦労しませんでした、「ちゃんちゃん」ということならばここに書いてもしかたがながいべさ。
私を悩ませたものに、小数がまざったかけ算わり算がある。なにがって、そりゃああなた、いままでやってきたかけ算というものは、かければ数が増える、そしてわり算といえば数が減った答えがでてくるのに、 小数のかけ算ときたら、数が減って答えを出さなければならないし、逆に小数で割ると、答えが大きくなって出てしまう。
これは今でも覚えているがかなり私を苦しめた。どのように自分なりの結論をだして、この問題から抜け出したかはよく覚えていないが、「まあそうやって答えを出せばよいのだとりあえず」という、 長いものにはまかれてしまうというものだったような気もしている。
0.1*2=0.2
ということだが、これを次のように考えると納得する。
0.1 が2こあるから
0.1+0.1=0.2
だよね。でもさ、かけ算というのは順序を逆にしても、同じ答えが出るんだろ、だってそうやって習った門差。つまり
2*0.1=0.2
2が0.1こあるってどういうこと・・・。
これは2かける10分の1と同じなんだよ。とそのときには気が付かなかった。そんな頭はなかったとおもう。この結論はたぶんもう少し大人になってから出した考え方というか、結論というか、 そういうものだよというように思ったというか・・・。
それで、わりざんもかけざんのときと考え方は同じで、 10割る5というのは、10の中に5がいくつ入ってますかということで、答えは2ということになる。 同じ考え方で 10割る0.1は10の中に0.1がいくつありますかということなので、100こありますということで、解決。 つまり、いくつ入ってますかという風に考えれば、小数でわると、答えが増えるということは解決するとこどものころは 結論をだしたような気がしています。というか、これが本来のいわゆるわりざんの考え方なのかもしれませんね。 いままでずっと、自然数だけの世界で、かけざんやわりざんをやってきて、みかんを分けるとか、林檎がいくつか入っている袋を 4袋かったら林檎は全部でいくつですか?ということをやってきた子どもにとって、 「かけざんはかならず増えて答えがでる、わりざんは答えが少なく出るものだ」と もう体に染みついているのだ。そこに出てきたのが小数を含んだかけざんわりざん。これだといままで体に染みついてきた概念とはまったく反対の現象に なってしまうのだ。これは戸惑うのは当然かもしれない。 体に染みつくと言えば、かけざんは交換しても答えはまったく同じということはだれでも無意識にやっている。 つまり5*6も6*5も同じ答えということは、もうたぶん大人は遺伝子レベルで染みついているのだろう。 「なにをいまさら」といわれそうだけどさ。 でもこれ、よく考えると当たり前でないような気もしてくる。 例えば 5*6というのは、5を6回たしざんしなさいということだよね。つまり 5*6=5+5+5+5+5+5=30 ということだ。 次に、同じように、6*5は6を5回たしざんしなさいということ、つまり 6*5=6+6+6+6+6=30 である。 ここでよく考えて下さい。 もしあなたがかけ算という概念をしらなくて、足し算と引き算しか知らなかったとします。 そこで質問です。 上のように、5を6回たすことと、6を5回たすこととは、同じ答えになりますか?と聞かれて、すぐに「はいなります」といえますか。
私はすぐにはいえない。もちろん、かけざんは交換しても答えは同じだからという事実をいやというほど体に染みついているから、即座に同じですとこたえられるけれども、もしいまあなたが かけざんというものをまったく知らないで、上の5を6回たすことと、6を5回たすことと同じですかと 聞かれたらどうだろうか。「それは実際に両方とも計算してみて、答えを比べないとわからない」というのではないだろうか。
数学の世界にはいると、行列というものが出てきて、この行列というもののかけざんの場合は、交換するといっぱんてきには同じ答えにならない。 また、循環群というものは、何回かかけざんをすると、元の値に戻るというものが出てくる。 つまり円周を歩いて来たら再び同じ位置に戻るということと同じ。 行列や、群の世界のかけざんと、上の自然数などのかけ算の世界を比較すること自体がナンセンスなのだろうけれども。 数学の世界では、まあ逆にしても同じにはならない世界があるらしいということがわかればよいのさ。だからどうだという話ではない。 どうでもよいことではある。何のおかずにもならないことだよ。
話は戻るけど、かけざんは交換しても答えは同じだよということは、大人はいやというほど身にしみているということだが、これは これは何度も何度もドリルをして、先生に理不尽に怒られて体に染み込ませたものだ。 実に教育という物は恐ろしいものだよな。何度も繰り返してそして、怒って教えると それが当たり前だと思えてくる。 「おまえの前にいる奴はおまえの敵だよ」と繰り返して教えられれば、敵になってしまうのだ。
逆によい方にこの繰り返しということを利用すれば、語学はかなり行けるのだと思う。 語学はやはり繰り返しだということかな。 でもさ、いい大人になっちまうとこの繰り返すという行為ができなくなってしまう。 「もうわかったからだいじょうぶ」と思ってしまう。実はまったくわかってないのにさ。
自分でもこの「無限」ということについてなにも結論めいたことは出てない。 よって、ぐだぐだな書き込みとなってしまう。
無限の命、無限の空間、無限の時間等々いろいろなことで形容詞てきに使われているよね。 無限にお金があったら、どういうことになるのか。 それは、いくら株に投資してもそしてどんなに損をしても、いくらでも果てしなく難平してもだいじょうぶということか。 でもそもそも無限に金があるので損をするという概念がないのかもしれない。
無限に命が有ったら、死という概念すら出てこない。「ねえパパ、ねえねえ、死ぬってどういうこと」と子どもが質問するようなものかもね。
目隠しして、同じ所をぐるぐる回るように歩けば、その人は無限に歩くことができる。 そう言えば、確かしゃーろっくホームズの中に、「目隠しして長い時間馬車に乗せられていた」と被害者が 言っている話があったと思うけど、どんなタイトルのものだったか忘れた。
これは目隠しされていて同じ道を何度も何度も馬車で走っていただけという落ちだけど。
無限を考えるときに、「果てがないこと、終わりがないこと」と言われるが、 終わりがないことというのがどうも創造ができない。終わりがないんだぜ。それって本当にどういうこと??
地球の中にある砂粒だって、有限の数しかない。地球上の中にある水野分子の数だって有限だ。つまり数えて行けば、「先生、地球の中野砂粒の数はいくつで、水野分子はいくつです」 「はい、よく数えられました」というようなものだよね。実際にこれらが数えられるかどうかはどうでもいいんだよ。
だから果てがあるとか、きりがある、「これっきりだよ」ということはよくわかる。 そういえば、「もうこれっきりだよ」なんて何年もいわれてないよな(笑)。
人間の記憶力も有限だ。だからいやなことは忘れることができる。ちょっとうそっぽい説明かもね。
バナッハタルスキーの定理というものがある。詳しくはググってくれということになるんだけど、 まあなにさ、小さな球を「うまく分解して繋ぎ直せば、もっともっと大きな玉ができるよ」というもの。
「バッカジャネーノ」と言われるかもしれんが、これはちゃんとした「数学の定理」なのさ。つまり、小さな砂粒1こを「うまああく」分解して作り直すと太陽と同じ体積のものが作れちゃうよということ。
「だったらさ、小さなダイアをうまく分解して繋ぎ直せば、太陽と同じ体積、いやいや、もっともっと大きなダイアができちゃうの」ということになる。
それはその通りなのさ。でもこれは「数学での話」であって、現実にはそんなことはできない。 「数学の理屈だけの世界の話」であれば可能だということ。 でも繰り返すが数学の世界の理屈ではこの定理はなりたすのだ。
とえらそうに書いてるけど、私は数学科の大学生のときはこれは全く知らなかった。 この定理を知ったのはもっともっと大きくなってからの話。
そもそも数学は現実から想像もつかないような結果を出す。 無限という概念が入ってくるととんでもないことが起きる。上のバナッハタルスキーの定理も、無限とか、無理数の仕業で常識的には考えられないことを起こす。
無限ということが、例えば、数直線の点と、平面(別にn次元でもよいんだけど)の点とが一対一に対応する、簡単にいうと、直線の点の数と、平面の点の数が同じというようなことが起きてしまう。 この事実を発見したカントール自信が友人に当てた手紙の中で「私は見た!でも信じない!」と言ったとか言わなかったとか。