理数の話

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初めに

理科や数学で気になっていること等を書いてます。内容の保障はいっさいありません。 酒の肴になるかどうかもわからんし、たぶんキャバクラでもやくにたたない(笑)。

当たり前だと思っている算数の話

 いまの小学生の教科書などを見てないのでどんな内容なのかまったくしらないのですが、もちろん算数の事業というものはあるでしょうね。 小学生までに最低できなければならない計算には、分数の計算というものがあるのだと思う。 これができるかできないかがその後大きくというか、全面的に左右するのだと思う。

私は通分というものをならったとき、「すごい」と少し感動した記憶がおぼろげにある。もうかなりの昔話だけど。 それ以降私は算数で苦労しませんでした、「ちゃんちゃん」ということならばここに書いてもしかたがない。

ところで、私を悩ませたものに、小数がまざったかけ算わり算がある。なにがって、そりゃああなた、いままでやってきたかけ算というものは、いわゆる自然数の範囲なので、かければ数が増える、そしてわり算といえば数が減った答えがでてくるのに、 小数のかけ算ときたら、数が減って答えを出さなければならないし、逆に小数で割ると、答えが大きくなって出てしまう。

これは今でも覚えているがかなり私を苦しめた。どのように自分なりの結論をだして、この問題から抜け出したかはよく覚えていないが、「まあそうやって答えを出せばよいのだとりあえず」という、 長いものにはまかれてしまうというものだったような気もしている。

0.1*2=0.2

ということだが、これを次のように考えると納得する。

0.1 が2こあるから

0.1+0.1=0.2

だよね。でもさ、かけ算というのは順序を逆にしても、同じ答えが出るんだろ、だってそうやって習った門差。つまり

2*0.1=0.2

2が0.1こあるってどういうこと・・・。

これは2かける10分の1と同じなんだよ。とそのときには気が付かなかった。そんな頭はなかったとおもう。この結論はたぶんもう少し大人になってから出した考え方というか、結論というか、 そういうものだよというように思ったというか・・・。

 それで、わりざんもかけざんのときと考え方は同じで、  10割る5というのは、10の中に5がいくつ入ってますかということで、答えは2ということになる。  同じ考え方で  10割る0.1は10の中に0.1がいくつありますかということなので、100こありますということで、解決。  つまり、いくつ入ってますかという風に考えれば、小数でわると、答えが増えるということは解決するとこどものころは結論をだしたような気がしています。というか、これが本来のいわゆるわりざんの考え方の「一つの方法」なのかもしれませんね。ここで「一つの方法」とわざわざ書いたのは、後で「わり算の意味」で書きたいと思う。

いままでずっと、自然数だけの世界でかけざんやわりざんをやってきて、みかんを分けるとか、林檎がいくつか入っている袋を 4袋かったら林檎は全部でいくつですか?ということをやってきた子どもにとって、 「かけざんはかならず増えて答えがでる、わりざんは答えが少なく出るものだ」と体に染みついているのだ。そこに出てきたのが小数を含んだかけざんわりざん。これだといままで体に染みついてきた概念とはまったく反対の現象に なってしまうのだ。これは戸惑うのは当然かもしれない。  体に染みつくと言えば、かけざんは交換しても答えはまったく同じということはだれでも無意識にやっている。

つまり5*6も6*5も同じ答えということは、もうたぶん大人は遺伝子レベルで染みついているのだろう。 「なにをいまさら」といわれそうだけど。

でもこれ、よく考えると当たり前でないような気もしてくる。  例えば  5*6というのは、5を6回たしざんしなさいということだよね。つまり 5*6=5+5+5+5+5+5=30 ということだ。  次に、同じように、6*5は6を5回たしざんしなさいということ、つまり 6*5=6+6+6+6+6=30 である。  ここでよく考えて下さい。 もしあなたがかけ算という概念をしらなくて、足し算と引き算しか知らなかったとします。 そこで質問です。 上のように、5を6回たすことと、6を5回たすこととは、同じ答えになりますか?と聞かれて、すぐに「はいなります」といえますか。

私はすぐにはいえない。もちろん、かけざんは交換しても答えは同じだからという事実をいやというほど体に染みついているから、即座に同じですとこたえられるけれども、もしいまあなたが かけざんというものをまったく知らないで、上の5を6回たすことと、6を5回たすことと同じですかと 聞かれたらどうだろうか。「それは実際に両方とも計算してみて、答えを比べないとわからない」というのではないだろうか。

数学の世界にはいると、行列というものが出てきて、この行列というもののかけざんの場合は、交換するといっぱんてきには同じ答えにならない。 また、循環群というものは、何回かかけざんをすると、元の値に戻るというものが出てくる。 つまり円周を歩いて来たら再び同じ位置に戻るということと同じ。  行列や、群の世界のかけざんと、上の自然数などのかけ算の世界を比較すること自体がナンセンスなのだろうけれども。

なにもえらそうに行列など出さなくても、算数の世界でも「交換したら答えは違う」という演算はある。 それは引き算とわり算だ。

5 ひく 2 と 2 ひく 5は答えが違う。

10 わる 2と 2 わる 10は答えが違う。

なので十分に算数の世界でも交換すると答えが違うものはある。だけど、これは当たり前すぎて、気が付かないというか「だからなんなのさ」と思うのである。

ついでに書くと、普通の数の世界だと0でないものどうしを書けると絶対に0にはならない。つまり

2*3の答えは6でゼロではない。

かならず0でないものどうしだと答えは0にはならない。当たり前だ。

ところが、行列をまた例に出すと、両方とも0の行列ではなくても、書けると0行列になるものがいくらでもある。例えば 2行2列の行列の例で、1行1列の成分だけが1で後の3この成分が0、もう一つは2行2列目の成分だけが1で残りが0の行列だと、お互いに書けると0行列になってしまう。普通の数の世界ではありえないことがいくらでも起きる。

 数学の世界では、まあ逆にしても同じにはならない世界があるらしいということがわかればよいのさ。だからどうだという話ではない。 どうでもよいことではある。何のおかずにもならないことだ。

 話は戻るけど、かけざんは交換しても答えは同じだよということは、大人はいやというほど身にしみているということだが、これは これは何度も何度もドリルをして、先生に理不尽に怒られて体に染み込ませたものだ。 実に教育という物は恐ろしいものだよな。何度も繰り返してそして、怒って教えると それが当たり前だと思えてくる。 「おまえの前にいる奴はおまえの敵だよ」と繰り返して教えられれば、敵になってしまうのだ。

逆によい方にこの繰り返しということを利用すれば、語学はかなり行けるのだと思う。 語学はやはり繰り返しだということかな。よく思い出してほしい、子どものころにどれだけ漢字練習に時間を使ったかを考えれば繰り返しが大切かは分かるはずだ。だから「1日5分英語を聞き流すだけで英語が分かるようになる」というようなものはクソ教材のなにものでもないということが分かるはず。もっとも、いままでSee you laterというものが聞き取れなくて、この英語教材で聞き取れて分かるようになったと思えるのであれば、たしかにその人にとっては「英語が分かるようになった」と思えるのだろうけど、つまり人それぞれが「分かるようになった」と言う基準が違うから、このような教材が詐欺として掴まらないのだろう。 「あなたはこの教材でsee you laterと聞き取れて分かるようになったではないですか」と言い逃れをするのだろうと思う。

話しがクソ教材に逸れてしまった。

まあつまり、いい大人になっちまうとこの繰り返すという行為ができなくなってしまう。 「もうわかったからだいじょうぶ」と思ってしまう。実はまったくわかってないのに。

わり算の意味

なんか小学生の子どもがいるので、わり算っていったいなんなのかということを考えてみたりネットで調べてみた。 いちようまとめると下のような感じになった。でもこれでよいのかかなり自信がない。

どうやらわり算で答えを出す目的は2種類に分けられるようだ。

1.一つ目の目的
(全体の数) わる(1当たりの数) = (いくつ分)
例えばこんな問題だ。
12このキャラメルがあります。4こづつ分けるとしたら何人の人に上げられますか。
12こ 割る 4こ = 3人
答えは3人の人にあげられます。
これはいわゆる難しい言葉で言うと「包含除」とい言うようだ。

2. 二つ目の目的
(全体の数)割る(いくつ分)=(1当たりの数)
上野問題と良く似ていますがこんな問題だ。
キャラメルが12こあります。子どもは4人います。「一人当たり」いくつもらえますか。
12こ 割る 3人 = 4こ
「1人当たり4こ」
これも難しい言葉で書くと「当分除」と言うらしい。

今私は強調のために「1人当たり」とわざと鍵かっこでくくた。

じっくり見て頂けるとお分かり頂けると思うが、やっていること、つまり目的が違っている。

また1. 2. の式を見て頂ければわかると思うが、 割る数と、答えの数が1. 2.では入れ替わっている。

では1.の説明だ。
これは、単純に割られる数を等分するということをやっている。つまりどうやったら均等に分けることができるかと言うことが主旨だ。 だから「割られる数」と「割る数」が同じ種類の物どうしで計算している。つまり、割られる数も割る数も同じ「キャラメルの数」ということだ。 それから等分に分けると言う問題なので、割られる数が必ず割る数より大きいはずだ。

上野問題の違う例としては例えば 12人がいます。2人かけの椅子は何脚必要か。 12人 わる 2人= 6きゃく
などなど、いわゆるわり算の導入でよく使われる例がこの1.の例だ。

では2.の説明だ。 これは、「割る数の1当たりに対していくつになるか」と言うことを求めている。難しく言うと、「割る数の単位当たりの数」を求めるものだ。先ほどの問題で言うと「1人当たりいくつのキャラメルがもらえるか」と言うことだ。1人当たり(割る数の1当たり)いくつになるかということだ。 このパターンの場合は、割られる数と割る数は違う物どうしだ。上野例だと割られる数がキャラメルであるのに対して、割る数は「人の数」だ。

子ども達がわり算で混乱するのは、この1. 2.の両方がわり算の文章問題では混在するからだ。 つまりわり算の目的が2種類あるということをしっかり認識できていなければだめだと言うことだ。

今まで、私はわり算を教えるときに、例えば6割る2だったら、「6を2当分するんだよ」とか、「6の中に2はいくつあるの?」と教えていた。つまりこれは1.の場合に当たる。わり算のもう一つの目的である2.を忘れて教えていたなと反省した。

1. だけを重視して教えてしまうと、自然数だけのわり算だとかなり直感的で有効なのだが、小数や分数が混ざってくるわり算では、この教え方は「破綻」する。

例えば、2割る0.5だと、「2を0.5当分するんだよ」では、いったいなにを言っているのかちんぷんかんぷんだ。「0.5当分って??」と言うことになる。これはまだ「2の中に0.5はいくつありますか?」と言う方法でなんとか切り抜けられる。 でも、これは小数が混ざってはいませんが、2わる5というような、「小さな数を大きな数で割る」と言うものになると、この教え方は「破綻」する。「2の中に5はいくつありますか?」と言ったら、2の中に5は一つもないから0だ。そしてあまりが2だ。だから2割る5はゼロだと応える人も出てくる。たしかに、これは1.のパターンでは満点の答えだ。 ということで、上野「割る数で等分する」とか、「割る数がいくつありますか」と言う1.の方法では有効な場合もあるが、万能ではない。

1. のわり算の目的は直感的に分かりやすく、図示もしやすい。なにせ等分に分けるような図を書けばよいのだから。

ということで1.のパターンの問題はくどくどと説明は必要ないと思うので、以下は総て2.のパターンの問題のみだ。高学年になると2.の問題が多くなるのではないか。つまり割る数1に対する数はいくつかと言う問題だ。

割られる数と割る数が違う物どうしであることを注意して読んで頂ければと思う。

問題1
6この飴を3人で分けます。「一人当たり」いくつか。
6こ 割る 3人 イコール 2こ
なので、「一人当たり」2こだ。
上野問題で、私は「一人当たり」というように「。。。」を使った。割る数1当たりいくつかを強調するためだ。 また割られる数は飴の個数、割る数は人の人数ということで、違う物どうしだ。

この問題では簡単過ぎて実感できないと思う。 では次の問題だ。

問題2
5キログラムの重さの鉄パイプが2.5メートルあります。この「1メートル」当たりの重さは?
5キログラム 割る 2.5メートル = 2キログラム
だから、「1メートル当たり」の重さは2キログラム。 これも重さと長さということで、割られる数と割る数は違うものどうしだ。 割る数の単位当たり、つまり今の場合は1メートル当たりということだが、まさに単位当たりの料または数を求めている。

問題3 4キロメートルの距離を2分かかって走る車の速度は 4キロメートル 割る 2分= 2キロメートル つまり1分当たり2キロメートルで走る。つまりこれは速度を求める問題だ。 これも、距離(長さ)と時間と言うように違う物どうしだ。

問題4
4こ200円のオレンジと、5こ240円のオレンジどちらのオレンジが安いでしょうか。

このような問題では、「オレンジ1こ当たり」いくらかを求めて、どちらが安いのか比べないとわかりませんね。

200円 割る 4こ = 50円
240円割る5こ = 48円
とそれぞれ「オレンジ1こ当たり」の料金を求めている。結局 1こ48円のオレンジが安いので、この場合の答えは5こ240円のオレンジの方が安いということになる。くどいがこれも「割る数が1当たり」を求めて、比較している。オレンジの「単価」を出して比較している。これは買い物をするときには大人は普通にしていることかもしれないが、これも「わり算ってどういうこと」という2.のパターンの典型的な問題だ。 これも金額とオレンジの個数というように違う物どうしだ。

次の問題はもう直感的に「等分する」とか、「数がいくつ入っていますか」ではもうお手上げな例だ。 「単価」今の場合も割る数の1当たりの料を求めています。 問題5
4分の1が200円のケーキと、5分の1が150円のケーキ、どちらのケーキが安いでしょう。
200円割る4分の1こ=800円
150円割る5分の1こ= 750円
だから、150円のケーキの方が安いと言うことになる。これも、結局ケーキを切る前の状態、つまり「ケーキ1こ当たりの料金はいくらかな」ということを出して比較している。 このケーキの問題でも、私もそうなのだが、頭の中ではやはりかけ算でやっている。
200かける4 イコール 800円
150 かける5 イコール750円
だから、5分の1のケーキの方が安い。
もちろん間違いではない。これは結局「分数のわり算は分子と分母をひっくり返してかける」ということを瞬時に無意識に頭のなかでやっていることにすぎない。

ちなみに当たり前だと言われそうだけど、この比較するケーキは、1こ分になおしたときには同じ大きさのケーキでなければならない。 1こに戻したときに、片方は直径10センチのケーキで、もう一つは直径1メートルであったならばそもそも比較しようがないから。

ということで、高学年になったらわり算の目的は1. 2.の両方があるということをしっかり認識しなければならないのかなと言うのが思ったことだ。 自然数だけで、大きい数を小さい数で割るというような場合でしか通用しない方法では、もう小数や分数が混ざった問題では解釈不可能だ。

無限の話

私はよく眠れなくなるとか暇な時間ができると時々「無限とはなんだろうか」と思ってしまうことがある。 「無限」というと哲学とか数学の世界になってしまうようなのだが。

 自分でもこの「無限」ということについてなにも結論めいたことは出てない。 よって、ぐだぐだな書き込みとなってしまう。

 無限の命、無限の空間、無限の時間等々いろいろなことで形容詞てきに使われている。 無限にお金があったら、どういうことになるのか。 それは、いくら株に投資してもそしてどんなに損をしても、いくらでも果てしなく難平してもだいじょうぶということか。 でもそもそも無限に金があるので損をするという概念がないのかもしれない。

 無限に命が有ったら、死という概念もないのだろう。

目隠しして、同じ所をぐるぐる回るように歩けば、その人は無限に歩くことができる。 そう言えば、確かしゃーろっくホームズの中に、「目隠しして長い時間馬車に乗せられていた」と被害者が 言っている話があったと思うけど、どんなタイトルのものだったか忘れた。

これは目隠しされていて同じ道を何度も何度も馬車で走っていただけという落ちだけど。

 無限を考えるときに、「果てがないこと、終わりがないこと」と言われるが、 終わりがないことというのがどうも創造ができない。終わりがないんだぜ。それって本当にどういうこと??

地球の中にある砂粒だって、有限の数しかない。地球上の中にある水野分子の数だって有限だ。つまり数えて行けば、「先生、地球の中野砂粒の数はいくつで、水野分子はいくつです」 「はい、よく数えられました」というようなものだよね。実際にこれらが数えられるかどうかはどうでもいいんだよ。

 だから果てがあるとか、きりがある、「これっきりだよ」ということはよくわかる。 そういえば、「もうこれっきりだよ」なんて何年もいわれてないよな(笑)。

 人間の記憶力も有限だ。だからいやなことは忘れることができる。ちょっとうそっぽい説明かもね。

バナッハタルスキーの定理

バナッハタルスキーの定理というものがある。詳しくはググってくれということになるんだけど、 まあなにさ、小さな球を「うまく分解して繋ぎ直せば、もっともっと大きな玉ができるよ」というもの。

「バッカジャネーノ」と言われるかもしれんが、これはちゃんとした「数学の定理」なのさ。つまり、小さな砂粒1こを「うまああく」分解して作り直すと太陽と同じ体積のものが作れちゃうよということ。

「だったらさ、小さなダイアをうまく分解して繋ぎ直せば、太陽と同じ体積、いやいや、もっともっと大きなダイアができちゃうの」ということになる。

それはその通りなのさ。でもこれは「数学での話」であって、現実にはそんなことはできない。 「数学の理屈だけの世界の話」であれば可能だということ。 でも繰り返すが数学の世界の理屈ではこの定理はなりたすのだ。

とえらそうに書いてるけど、私は数学科の大学生のときはこれは全く知らなかった。 この定理を知ったのはもっともっと大きくなってからの話。

そもそも数学は現実から想像もつかないような結果を出す。 無限という概念が入ってくるととんでもないことが起きる。上のバナッハタルスキーの定理も、無限とか、無理数の仕業で常識的には考えられないことを起こす。

無限ということが、例えば、数直線の点と、平面(別にn次元でもよいんだけど)の点とが一対一に対応する、簡単にいうと、直線の点の数と、平面の点の数が同じというようなことが起きてしまう。 この事実を発見したカントール自信が友人に当てた手紙の中で「私は見た!でも信じない!」と言ったとか言わなかったとか。

0.999...=1の解釈

どうも「うさんくさい」とか「だまされている」とよく言われるのがこの
0.999...=1
である。私も人並みに学校で数学を専攻したのだが、何を隠そうこの「うさんくさい」と思っている一人である。厳密な証明には等比数列の和をとって極限をとるとか、a=0.999...の両辺を10倍してやる証明とかあると思う。 でも、これはわかるけどそれでもやっぱまだなんとなくだまされているようなしゃくぜんとしないと言う人もいると思う。 上に上げた証明はどの教科書にものっているし、Webにもたくさん上がっている。 それで「よし納得した!」と思える人はわざわざこのページをのぞきには来ないはずである。

と偉そうなことを書いたが、以下に書く事は厳密な証明ではないし、「証明」と言うようなものではなくて、私の直感的な解釈である。

まず、 0.999...
の書き方の注意点であると言うか、解釈の方法である。この最後に付いている...が重要である。この...いわゆる「てんてんてん」は、何もおまけで付いているわけではない。 これは「永遠に9と言う数字が続きます」つまり、「終わりがなく9が続いていますよ」と言うすごく大切な印である。 でも紙に書けるスペースには限りがあるから、...と書いて「永遠に続きますよ」と言う印を付けておくのだ。 だからこの...を書き忘れて0.999と書いたならば、それはもちろん「0.999」そのものであって、それはだれがなんと言おうともけっして=1には絶対にならない。1よりも絶対に小さい数である。

依然大学の小試験で、e^xのテーラー転回を書きなさいというようなものが出た。 答えは
e^x=1+x+x/2+...+x^n/n!+...
であるが、この式の最後の...がないと0点である。つまり
e^x=1+x+x/2+...+x^n/n!
と書いた私は0点と言うことになった。それだけ最後の...は大事なものである。
この...がなしで、x^n/n!で終わってしまえば、nにはなにかしら決まった自然数が入ると言うことになってしまい、右辺は有限な範囲で終わってしまうという表現になってしまう。つまり「この式の右辺は有限で終わりますよ」ということになってしまう。ところが、e^xのテーラー転回は無限に続くのだ。この...があるおかげで、「この右辺は終わりが亡くどこまでも続きます」と言う印になるのだ。 ところが、...を書き忘れた私の回答では、有限に終わるということになってしまうので、0点は当然ということになる。

...の説明にちょっと時間を費やしてしまったが、とりあえずこれはすごく大事な印で、「永遠に続きますよ」と言う大事な大事な印であるということを頭に入れて置いて下さい。これがないと0点になることがあるぐらい大事な印であるということだ。 もちろんテーラー転回なんか知らなくても今後の説明には一切関係ない。ただたんに...は大事ですよということを伝えたかっただけであるから。

さて、0.999...=1の直感的な説明だが、これは、9と言う数字が永遠に続きますということだ。くどいが、途中で9が終わっていれば、もちろん1とはイコールにはならなく、1よりも明らかに小さな数である。小数第1兆桁で9が終わっていれば、もちろん1よりは小さな数である。どんなに大きな小数の桁であろうと、そこで9が切れていれば、それは絶対に1よりは小さな数である。

さて、ここまでで0.999...=1の直感的な解釈のための準備はできたと思う。
くどいが、0.999...は、永遠に9が続いています。

さて、これはちょっと大事なことなのですが、まず、この0.999...が、少なくても1よりは大きい数ではないということはよいでしょうか。だって、「れいてんきゅーきゅーきゅーてんてんてん」と言うように、「れいてん」と読んで居るではないですか。これがもし1より大きな数だとすれば、「いちてん何々」とか、「にいてん何々」というう風になりませんか? だから0.999...は1かもしれないし、1よりは小さい数のどちらかであるということになります。けっして1よりも大きい数ではないということです。

さて、そこでいま問題にしているのは「ゼロてんきゅーきゅーきゅーてんてんてん」と言う数です。今書いたとおり、これはすくなくても1よりは大きな数ではないということは分かりました。

さて、ここまでわかればあともう少しです。 0.999...は永遠に9が続いているのです。だからもし、いまあなたがこの数の小数第1兆桁に1を加えたとします。つまりこの数字に0.000....1(小数第1超桁目が1の数を表します)を加えたとすれば、つまり
0.999... + 0.0000...1(小数第1兆桁目が1であって後は総て0) = 1.0000...999...
となります。つまり小数第1超1桁目から再び9が続きます。 だから明らかにこの1.000...999...は1よりは大きな数です。
繰り返して同じ事は書きませんが、小数第むりょうたいすう桁目が1であって、後は総て0の小数を、0.999...に足しても同じ様な結果です。 1.0000...999...という用に、小数むりょうたいすう1桁から9が続きます。忘れてはいけないのは、この9が終わりが亡く永遠に続いているのです。あなたがどんなに頑張って、小数第何桁めに1があって、他の桁が0である数を足しても、かならずその後には999...と言うしっぽが残るのです。どんなに頑張ってもです。どんなに頑張っても かならずその後には、999...と言うしっぽが残り続くのです。これが無限と言うことなのでしょうが・・・。ですから、どんなに小さな数を足してもかならず999...と言うしっぽが残ってしまい、このしっぽの分だけ必ず1よりは大きな数になってしまうのです。これは無限に9が続いているからです。

もし有限に9が続いているだけならば、その最後の9がある桁に1を足して上げれば=1になります。有限とは終わりがかならずあるということです。その終わりの桁に1を足して上げれば、=1になります。だから0.999999と言うように有限に9が続いている数の場合には、=1にはなりません。最後の9の桁に1を加えて初めて=1になるのです。いいかえれば0.9999のように有限なものはその最後の桁に1加える数だけ1よりはかならず小さくなりイコール1にはけっしてなりません。 ところがです、無限に9が続いているとなると話しはまったく変わってくるのです。これが有限と無限の大きな違いということでしょうか。 上で見たように、どんな場所、つまりどんな小数何桁目に1を足そうが、かならず999...と言うしっぽが腐れ縁のようにつきまとうのです。そのしっぽだけ1よりは大きな数になるのです。 言い換えれば、どんな小さな数をたしても、必ず1よりは大きくなってしまうということです。どんな小さな数を足しても1よりも大きな数になってしまうのならば、0を足した場合には、なにもかわらない、つまり今の場合は1のままと言うことになりませんか。

0.999... + 0 =0.999...=1
ということです。どんなに小さな数をたしてもしっぽがつきまとってきてその分だけ1よりも大きくなるのであれば、大きさがない0を加えたならば「0を加えた分だけ1よりも大きい」(なんかへんな表現ですが上野表現を利用するとこのような書き方になります)0の分だけ1よりも大きい、つまり1に均しいと言うことになります。

また、それからこのようにも考えられます。

0.999...は永遠に9が続いている、どの小数の桁にも9があって、どの小数のそれぞれの桁も満員である。つまり、どの桁にもそれ以上1を加える余裕はどこにもないのです。ひとたびどの桁でもよいですが1を加えてしまったならばあっと言う間に1を越えてしまうのです。

どの小数の桁も満員で全く余裕がないということは、どの小数の桁にも数を足す余裕がない、つまりそれは1であると言うように解釈できないでしょうか。これはかなり直感的な話しになってしまって、そう言う気分がするように思うというような解釈になっているのかもしれませんね。